島原半島ジオパークについて
◆島原城(流れ山地形)
島原城_流れ山地形
数千年前の眉山の崩壊でできた流山の一つに森岳があった。1618年(元和4年)から松倉重政は、当時森岳と呼ばれていた高地を城のかたちに切り取って石垣を積み、堀をめぐらせて7年の歳月を費やして島原城を築城した。石高に不相応な築城にかかる課役は農民に重くのしかかり、1637年の島原の乱の原因となった。大手門では反乱軍との攻防もあった。現在は、天守閣にキリシタン史料並びに藩政時代の郷土資料・民俗資料等を展示しています。
◆原城跡(阿蘇の火砕流の地形)
原城跡_阿蘇の火砕流の地形
1496年、有馬貴純によって築かれたといわれ、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。島原城の築城により、原城は廃城となりましたが、1637年、「島原の乱」では、一揆群がこの原城に籠城しました。
この周囲4kmの三方を海に囲まれた天然の要塞は、阿蘇山から海を渡ってやってきた火砕流の堆積面の上に建てられました。火砕流は、地形のでこぼこを埋 めるように堆積するため、平坦な地形面をつくります。ここに平坦な地形があった事が、原城を築く一つの要因であったのでしょう。ちなみに、阿蘇山から来た 火砕流に伴う火山灰は、遠く北海道でも見つかっています。想像を絶する大火砕流だったのでしょう。
更に詳しく・・・>南島原市教育委員会
◆「みそ五郎伝説」〜島原半島に伝わる巨人伝説。
みそ五郎伝説
昔むかし、高岩山に大きな男が住んでいました。この大男は人が良く、力もちで、誰からも好かれていました。み そが大好きで、畑仕事の手伝いをしたり、山を切り開いて畑を造ったりしては、みそを分けてもらっていました。村人たちは「みそ五郎やん」と愛称をつけて呼 んでいました。高岩山を住みかにしていたので、朝起きて雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗うのを日課にしていました。唯一の楽しみは、雲仙岳に座り、九 州の山脈や遠くの海をながめたり、お手玉をして遊ぶことでした。ある日、いつものように畑仕事をしていたみそ五郎は、鍬を「えいっ!」と地面に振り下ろし たところ、力が入りすぎて体勢を崩し、尻もちをついてしまいました。そのとき、土くれが有明海に「ざぶん!」と音をたてて落ちました。このときできた小島 が「湯島(談合島)」です。また、鍬で掘ったあとに水が溜まって、雲仙の空池になりました。それから、転んだときに足を深く切り、たくさんの血が出て、土 が真っ赤になってしまいました.今でもこの赤い土はみそ五郎の血色と言われています。また風の強い日、港にあった船が大波で沖へと流されていきました。漁 師たちは必死にロープでつなぎ止めようとしたが歯が立ちませんでした。それを見ていたみそ五郎は、嵐の海の中に入って、流れている船を何隻もつなぎとめ、 陸に引っ張りあげました。村人たちは、「ありがとう」と言いながらみそ五郎を取り囲み、喜び合いました。おおいに感謝されたみそ五郎は、みそをもらいなが ら幸せに暮らしました。

高岩山には、みそ五郎が遊んだお手玉石(円周十数メートル)や大きな足形がくっきりとついている(と言われている)石が今も残っています。 この巨人伝説は、人々の心の中に永く語り継がれています。
◆武家屋敷
武家屋敷
島原城築城の時、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。戦いの時には鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居であったので、鉄砲町とも呼ばれています。街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。
◆山田城址公園
山田城址公園
室町時代に入ると世は南北朝に分裂した。有家城の有馬氏は南朝を支持していた。1372年、有馬攻撃のために山田城が築かれた。1782年、北朝方で九州探題の今応安5年(1372)に築城された山田城跡を整備した公園。園内には天守閣をかたどった遊具が設置され、週末には子ども連れで賑わいます。展望台からは吾妻の町並みと有明海が一望できる絶景スポットです。
◆守山大塚古墳
守山大塚古墳
全長80m、後円直径50mの前方後円墳で、現在では墓地となっている。平成21年の発掘調査で4世紀初頭の土器片、墳丘葺石、周溝などが確認され県内でも最古であることが確認された。その横には、丸塚古墳と呼ばれる円墳もある。
◆神代小路・鍋島邸
神代小路・鍋島邸
豊臣秀吉の国割りにより、佐賀の鍋島に神代領が与えられました。1608年鍋島信房が神代に入り初代神代領主となる。領内支配のため陣屋が置かれ、武家屋敷ができました。小路にある鍋島邸は江戸から明治の建物群で、当時の面影がしのばれます。鍋島邸は、国指定重要文化財で、神代小路地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
◆神代城跡(鶴亀城)

南北朝時代には神代貴益が居城し、南朝方として活躍した。河川の浸食により、尾根の末端が孤立した丘を利用した山城で、堀や本丸跡などが残る。1584年沖田畷の戦いでは龍造寺軍の根拠地として利用されたが、江戸時代に廃城となる。
◆沖田畷の戦い 龍造寺隆信戦死供養碑
沖田畷龍造寺隆信供養塔
戦国時代、有馬氏と龍造寺氏は覇権を争っていました。1584年神代から上陸した龍造寺隆信の軍5万7千は三会に集結しました。これを迎え撃つ8千の有馬晴信・薩摩の軍は森岳に陣取りました。湿地の中の一本道、沖田畷(なわて)の地の利を生かした有馬氏が勝利し、島原半島を統括しました。
◆日野江城跡
日野江城跡
1200年頃から1614年まで戦国大名有馬氏の居城であった。キリシタン大名となった有馬晴信の時代には、1580年、ヨーロッパとの交流によりイエズス会の中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が有馬の城下町に創立された。1995年(平成7年)から開始された発掘調査では、金箔瓦も出土されています。
◆吉利支丹墓碑
吉利支丹墓碑
国指定史跡。世界遺産を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の一つ。西暦と和歴が入った日本最古のローマ字による碑文が刻まれ、美しい半円柱蓋石型の墓碑です。碑文にはポルトガル式綴字法のローマ字で「フィリ作右衛門 ディオゴ生年83御出生以来 1610 十月16慶長15」と判読できます。
◆旧島原藩薬園跡
旧島原藩薬園跡
国指定の史跡で、幕末における小藩経営の薬草園とはいえ、「日本三大薬園跡」の一つに数えられ、奈良県、鹿児島県の薬園跡に比べても、よく遺構をとどめた第一級の史跡です。
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