島原半島ジオパークについて

◇平成噴火

雲仙火山では、3回の噴火が記録されています。最古の噴火は1663年、次の噴火は1792年、そして最新の噴火は1990〜1995年の噴火です。このページでは、最近の2回の噴火の概略を紹介します。

◇平成新山
平成新山
雲仙岳災害記念館から見た平成新山。

平成新山2
普賢岳山頂から見た平成新山。平成新山と普賢岳は、実は全く別の山です。ここから、「ハートストーン」が見えますよ!ぜひ探してみて下さい!

平成新山3
水無川から見た平成新山。

平成新山4
垂木台地から見た平成新山。

平成新山は、火口から湧き出してきた溶岩が冷えて固まってできた山です。1991年5月20日から5年間ほど続いた溶岩の噴出により成長した山で、日本で 一番新しい溶岩ドームです。噴火終息宣言直後の山頂の標高は、1486メートルでしたが、その後の頂部の崩壊や、溶岩ドーム自体の”たるみ”により、現在 は1483メートルとなっています。この溶岩ドームは粘性の高いデイサイト質の溶岩で,わき出し場所を変えては斜面上に張り出し,先端が崩落を起こしまし た.その結果,火砕流が繰り返し発生し、尊い人命がたくさん奪われました。

◇島原大変
1792年5月21日夕刻、島原市の西にそびえる眉山は大地震によって大崩壊しました.その土砂は有明海に流れ込み、大津波を起こしました。その被害は、島原半島ばかりではなく、対岸の熊本側まで及び、有史以降日本の火山災害史上最大の被害となっています。

◇眉山の山体崩壊と流れ山
眉山の山体崩壊と流れ山1
花木公園からみた、眉山の崩壊地形。切り立った断崖絶壁が、当時の崩壊のすさまじさを今に伝えています。

◇ひょうたん池公園

眉山の大崩壊した土砂がつくった小山(流れ山)の上にあります。その大きさは現存する流れ山のなかで最大級のものです。その表面の起伏を利用して池がつくられ、その後ひょうたん池公園として整備されました。ここからは、眉山が崩れた時にできた巨大な壁を正面に見ることができます。

◇仁田団地第1公園(眉山の山体崩壊)
仁田団地第1公園(眉山の山体崩壊)
1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳噴火の最末期に頻発した大きな地震によって崩壊しました。崩壊した土砂は岩屑なだれとなって、当時の島原の町の南側を埋め尽くしただけでなく、一気に有明海に突っ込んで大きな津波を発生させました。この津波は対岸の肥後の国(熊本)にも押し寄せ、島原半島、熊本側の双方で甚大な被害を引き起こしました。この災害による犠牲者は15000人に達し、有史以降、国内最大の火山災害となっています。 島原市仁田団地第一公園の展望所からは、山側に眉山の生々しい崩壊壁が観察出来るほか、市街地に流れ下った岩屑なだれが、無数の「流れ山」を形成している様子が一望の下に観察出来ます。海に流れ込んでできた流れ山は九十九島(つくもじま)と名付けられました。 島原大変から20年後に伊能忠敬が測量した時には45あった島々(国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所 2007)は、浸食や水没により現在は17と数を減らしています。

眉山の山体崩壊と流れ山3
仁田団地第一公園から見る島原市街。市内に点在する小さな森や、海に点在する小島が、200年前の眉山の大崩壊によって生じた「流れ山」です。

◇旧大野木場小学校被災校舎
旧大野木場小学校被災校舎
平成3年9月15日の火砕流で全焼した旧大野木場小学校の校舎が残されています。
隣は大野木場砂防みらい館があり、砂防工事を遠望できます。
眉山の山体崩壊と流れ山2
海浜公園からみた眉山。左側に見えるえぐられた跡が、大崩壊を起こした場所で、この写真を撮影した場所は、昔は海だったところです。
◇千本木の火砕流堆積物千本木の火砕流堆積物
千本木地区を襲った火砕流堆積物を観察することができます。これらの火砕流堆積物は、噴火当時の地震計の記録と、噴火後の詳しい地質調査から、何月日の何時何分におこった火砕流の堆積物かが分かっています。

◇秩父が浦公園
秩父が浦公園
1792年大崩壊した眉山の山体は、一気に有明海に突っ込み、多数の島々と津波を生じさせました。秩父が浦公園では、海食により山体の残骸(流れ山)の内部を観察することができます。

眉山の山体崩壊と流れ山4
大きな災害の結果として生じた流れ山は、現在は風光明媚な景観を作ったり、天然の漁場や港として活用されています。

1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳噴火の最末期に頻発した大きな地震によって崩壊しました。崩壊した土砂は岩屑なだれとなって、当時の 島原の町の南側を埋め尽くしただけでなく、一気に有明海に突っ込んで大きな津波を発生させました。この津波は対岸の肥後の国(熊本)にも押し寄せ、島原半 島、熊本側の双方で甚大な被害を引き起こしました。この災害による犠牲者は15000人に達し、有史以降、国内最大の火山災害となっています。
島原市仁田団地第一公園の展望所からは、山側に眉山の生々しい崩壊壁が観察出来るほか、市街地に流れ下った岩屑なだれが、無数の「流れ山」を形成してい る様子が一望の下に観察出来ます。また、島原市秩父が浦公園付近では、海食により流れ山の内部がよく観察出来ます。

◇仁田峠
仁田峠1
仁田峠第二展望台からみた平成新山。溶岩ドームの急峻な地形と、そこから伸びる崖がきれいに観察出来ます。東側の眼下には、平成の噴火による火砕流や土石流の被災域、導流堤のほか、雲仙地溝の南端である深江断層や布津断層の細長い森が海までつついている様子を観察することができます。

仁田峠2
更に下流域。土石流を避けるための導流堤が、有明海まで連なっているのが見えます。

仁田峠3
仁田峠第一展望台。春にはピンクのミヤマキリシマが咲き誇ります。奥には平成新山の溶岩ドームが間近に迫ります。ロープウェイにのってみょうけん駅まで行くと、更に溶岩ドームに近づく事が出来ます。2009年5月撮影。

仁田峠4
冬。普賢岳山頂付近では、木の枝に氷が付着・成長して出来た「霧氷」が見られます。

仁田峠-間近に迫る平成新山と美しい自然
仁田峠循環道路をしばらく走ると、仁田峠第二展望台に着きます。この展望台からは、およそ2万7千年前に大崩壊を起こした妙見火山の崩壊地形(カルデ ラ)の中に成長した普賢岳溶岩ドームと、平成新山溶岩ドームが一望できます。日本で最も新しい山である平成新山からは、火砕流や崖錐(がいすい)が作り出 した急斜面が東に延び、荒涼とした景観を作っています。天気がよい日には、火砕流や土石流の被災地と、土石流から街を守るための導流堤が海まで続いている 様子が観察出来ます。

更に仁田峠道路を進むと、仁田峠第一展望台に到着します。
ここからロープウェイで妙見岳に登ってみましょう。平成新山の溶岩ドームを間近に観察する事が出来ます。5月には、山の斜面にミヤマキリシマが咲き誇 り、山肌をピンク色に染めます。ロープウェイに乗り、山頂の「みょうけん」駅から普賢岳に向かって伸びる登山道沿いでは、沢山の貴重な動植物を観察する事 が出来ます。冬には、小枝に空気中の氷が付着して生じた霧氷も見られます。ただし、ここは国立公園特別保護地区内です。動植物の採取はもちろん、ものを移動させることさえ認められません。ご注意下さい。

◇流れ山
流れ山
島原大変の時には、島原市の背後の眉山が大きく崩れました。このときできたたくさんの小さい丘を「流れ山」といいます。現在は、島原市内に点在する小さな丘や小島として認識されています。
山体崩壊の発生前後には、島原藩が江戸幕府に、この災害の様子を報告したと思われる絵図や文章が数多くのこされており、200年前に生じた噴火の推移や、そのときの災害の様子を詳しく知ることができます。

◇流れ山の堆積物
流れ山の堆積物
上の流れ山を近くで見た流れ山の断面が見られる場所です。
もともと眉山の色んな場所にあった土砂の塊をこの断面だけで見ることができます。

◇白土湖
白土湖1
1792年の眉山の大崩壊に伴う地殻変動によって生じた白土湖。

白土湖2
白土湖と眉山。眉山の崩壊によって生じた岩屑なだれ堆積物がつくる自然堤防が、白土湖のすぐ脇まで延びています。

白土湖3
白土湖畔で今も利用されている共同洗い場。市民の手によって維持・管理されています。

白土湖4
音無川(おとなしがわ)。1792年の災害から復興するために作られた人工の水路。傾斜が緩く、水の流れる音がほとんどしません。

白土湖(しらちこ)と音無川(おとなしがわ)
1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳の噴火の最末期に生じた大きな地震によって大崩壊を起こしました。この崩壊に伴って生じた窪地に、周 囲の井戸からあふれた水がたまって出来たのが白土湖です。白土湖は、現在は南北約200m、東西約70mほどの大きさがありますが、形成当時は今の約4倍 に当たる、南北約900m、東西約200mの大きさがあったそうです。
白土湖の出現により、当時の主要街道である島原街道は寸断されてしまいました。その後も水の湧出は止まらず、街道の寸断は続いたため、この水を排水する ための水路が建設されました。この水路は山体崩壊が発生する前の海岸線の形にほぼ一致し、勾配が緩やかで、水の流れる音がほとんどしない事から、「音無川 (おとなしがわ)」と名付けられました。
白土湖の湖底からは現在も大量の水がわき出しており、その量は1日あたり4万トンと推定されています。明治末には、この豊富な湧水を利用した酒造所やラム ネ工場が湖畔にありました。酒造所は今でも白土湖畔に軒を構えているほか、湖畔には米や野菜を洗うための洗い場も設置されており、今でも住民の生活用水の 一部として利用されています。

◇新燃熔岩
新焼溶岩1
上折橋から見た新焼溶岩。「寛政の噴火」の最中に、新緑色の山と山の間にあった谷を埋めるように、溶岩流がゆっくり流れました。

新焼溶岩2
溶岩流の先端は、巨大な一枚板が作る切り立った垂直の断崖になっています。その端から下を覗き込むと・・・・。
新焼溶岩3
溶岩流の先端に整備された焼山園地。散策路から溶岩流特有の地形(溶岩堤防など)を観察する事が出来ます。

新焼溶岩4
焼山園地内。かつて谷を流れていた川は、新焼溶岩と基盤の境目を伏流し、きれいな湧き水となって、溶岩流の先端から湧き出しています。

1792年、島原大変を引き起こした眉山の山体崩壊が起こる前に、普賢岳の北東側斜面でおよそ2kmにわたって流下した溶岩流の事を、新焼溶岩と呼んでい ます。現在は新焼溶岩は樹木に覆われ、またその先端からは湧水がわき出ています(焼山湧水)。溶岩流の先端には周遊路が整備されており、溶岩堤防が作る高 まりや、溶岩流の先端部が作る断崖絶壁を望むことができます。少し足を伸ばせば、平成噴火前に、かつてこの地域で湧き水を利用して行われていた「そうめん 流し」を楽しむこともできます(※夏季限定)

◇清水川
清水川
1792年(寛政4年)の島原大変により、水脈が枯れて日常生活に支障をきたすようになりました。そこで庄屋下田吉兵衛を中心として村人は水源を探しましたが、なかなか見つけることはできませんでした。しかしある夜、庄屋の夢枕にお告げがあり、このお告げが水源を発見するきっかけとなりました。その後、村人と協力して1821年(文政4年)に、約5キロを木桶で水道を完成させました。しかし、年々木桶の水道は痛みがはげしくなり、1857年(安政5年)に切石で水路を作り、水道を改修しました。長い間村人に利用されてきましたが、水道事業の普及により忘れ去られ、また1990年からはじまった「平成噴火」により、火砕流と土石流のため水源である岩上山は厚い土砂に埋没してしまいました。

◇権現脇遺跡
権現脇遺跡1
権現脇遺跡の発掘現場
権現脇遺跡2
およそ5600年前の火砕サージがなぎ倒した立木の跡。

権現脇遺跡-縄文時代に発生した火砕流※このサイトは現在立ち入り禁止です!
権現脇遺跡は、水無川の上流にある、約一万年前に形成されたとされる扇状地の上にある遺跡です。1990年から始まった平成噴火では奇跡的に薄い火砕 サージに覆われたのみで、火砕流による破壊や埋没を免れました。この遺跡からは沢山の埋没ピットが発見されましたが、土器や石器類は発見されなかった事か ら、遺構ではないと判断されました。その後、詳細な地質学的調査が行われた結果、このピット群は、過去に発生した火砕流に伴う火砕サージによって、立木が 根こそぎ倒された跡と推定されています。火砕サージ堆積物直下の土壌の年代はおよそ5600年前であり、まさに縄文時代の火砕サージの爪痕を観察する事が 出来ます。

◇流死菩提供養塔(りゅうしぼだいくようとう)

1792年(寛政4年)に発生した島原 大変により大津波が発生しました。この島原大変による犠牲者を供養するため、島原藩はそれぞれの村の寺に命じて供養を執り行わせ、高さ180cm、幅 45cmもある大きな供養塔が建立されました。この藩によって建立された供養塔は全部で7基あります。

◇尾茂浜 阿蘇の火砕流堆積物
尾茂浜 阿蘇の火砕流堆積物

尾茂浜 磁石
国見付近は50~30万年前の古期雲仙火山堆積物が分布し、風化した岩石からは多量の磁鉄鉱(砂鉄)が海に流れ出た。この砂鉄を利用して中世には蹈鞴(たたら)製鉄が行われた。また海岸には9万年前に巨大噴火した阿蘇火砕流の堆積物も見られる。

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