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宝篋印塔型流死供養塔

この地は、当時「水頭」と呼ばれ島原内港の船着場で城下随一の繁華街でした。 寛政4年(1792年)の眉山崩壊によって町並みは全壊し、住民の大半は津波によって溺死し、島原領南北17ヶ村にわたって死者9640人、対岸の熊本4653人、天草344人もの甚大な被害を受けました。
雲仙の一乗院七世弘輝和尚は当地に「溺死供養塔」の建設を藩に願い出、許可を受けて城下の有力者の協力のもと、災害の翌年寛政5年3月に3メートルもの供養塔を建立しました。